第2回 アメリカ上陸とブロードウェイの誕生~ミュージカル史~
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ヨーロッパで育まれたオペレッタと『ベガーズ・オペラ』の伝統は、18世紀から19世紀にかけて大西洋を渡り、移民とともにアメリカへ上陸しました。そこで出会ったのは、新大陸ならではの大衆芸能。ここから、現代につながる「ブロードウェイ・ミュージカル」の物語が始まります。
ミンストレル・ショーとアメリカの歌《そして、アメリカへ》
オペレッタがアメリカに上陸し、アメリカで育っていたエンタメと融合することになります。その頃のアメリカ独自のエンタメは、ミンストレル・ショーです。ミンストレル・ショーは1830 年代に簡単な幕間の茶番劇 (Entr’acte) として始まり、次の10 年には完全な形を成しましたが、19 世紀の終わりまでには人気に陰りが出て、ボードビル・ショーに取って替わられることとなりました。
「ミンストレル・ショー」とは、白人俳優が顔を黒塗りにして歌や踊りを披露する人種差別的な要素を含む演目で、現在では批判的に語られることが多いものの、当時は大衆に支持され、アメリカ音楽の発展に大きな影響を与えました。このショーのために多くの楽曲を提供したのが作曲家スティーブン・フォスター。代表曲「おおスザンナ」「ケンタッキーの我が家」などは今も歌い継がれています。
ボードビルとレビュー
ブロードウェイミュージカルが、正式にタイムズスクエアに出現するまで、大衆向けの小劇場というものはボードビル(vaudeville)が主流でした。ボードビルとは、17 世紀末にパリに出現した演劇形式で、米国においては舞台での踊り、歌、手品、漫才などのショー・ビジネスです。後に、このボードビルがブロードウェイミュージカルに変化を遂げていきます。
黎明期のブロードウェイミュージカルについて
ブロードウェイミュージカルの歴史は、1842 年、劇場事業家のオスカー・ハマースタインが、42 丁目と7 番街の場所に1000 の座席を持つ「ビクトリア劇場(Victoria Theatre)」を建てたのがはじまりと言われています。彼の劇場経営をきっかけに「ブロードウェイ」という地域が演劇街として発展。ブロードウェイという名称は、もともと先住民が切り開いた長い道「インディアン・トレイル」が由来とされています。
もともとは正統な劇場として作られましたが、すぐにボードビル(歌、手品、踊りなどが混ざった大衆演劇)などが行われるようになりました。ミュージカルスタイルの作品が上演されるようになったのは1850 年頃。ニューヨーク地区では、1857年に上演された「The Elves」という作品が計50 公演行われ、ミュージカルスタイルの初のロングラン作品だったと言われています。また現在のようなミュージカル形式のものでは、1866 年に始まった「黒い悪魔 The Black Crook」が最初のミュージカルと言われています。
ヴォードヴィルに続いて、観客を魅了したのがレヴューでした。見世物小屋やヴォードヴィルの巡業で興行のノウハウを学んだ興行師フローレンツ・ジーグフェルドが手がける、絢爛豪華なレヴュー・ショーが人気を博しました。
『ショーボート』の登場
ミュージカルが大きく変わるのが、1927 年に上演が始まった「ショー・ボート(Show Boat)」です。それまで比較的単純でハッピーエンドで終わるストーリーが多く作られてきましたが、この作品で初めてドラマ的な内容がミュージカルになりました。19 世紀末のミシシッピ川流域のショウ・ボートという船上でショーを上演する船を舞台に、そこで働く人々を描いた作品ですが、人種差別をテーマに入れており、それまでのお気楽な内容とは違い、深い物語を伝える作品だと高く評価されました。名曲「Ol’ Man River」は今もスタンダードとして歌い継がれています。
この作品が、現在のブロードウェイ・ミュージカルの幕開けとなります。
まとめ
アメリカに渡ったミュージカルは、ミンストレル・ショーやボードビルと融合し、やがてニューヨークのブロードウェイで一大文化へと成長しました。『黒い悪魔』で始まり、『ショーボート』で社会性を獲得したことで、単なる娯楽を超えた芸術としての道を歩み始めたのです。
次回は、1930年代以降のハリウッド映画や名作作曲家たちの活躍を通して、ミュージカルがいかに黄金期へ向かっていったのかを見ていきます。
第1回 ミュージカルとは何か?その起源をたどる~ミュージカル史~